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木戸駅と富岡駅と浪江駅と
2018年2月23日金曜日。いわき駅、朝7時半。男子高校生たちが階段を勢いよく駆け上がってくる。スマホを手に、あるいはおしゃべりに夢中な女子高生たちも続く。どこの街でも見かける日常。震災から7年。小学生だった彼らもまた巨大な地震と津波を体験し、心に傷を抱えてもいるかもしれない。
原発20キロ圏内にある楢葉町、富岡町、双葉町、大熊町からは(一部は浪江町からも)、いわき市にも多くの住民の方が避難した。その数は2万4000人余りだといわれる。「結果的に」ではあるが、いわき市に於いて原発事故による住民の流入は流出を上回り人口が増加した。さらには東電関連社員や除染・復旧作業員の居住地となったことで街は意外なほど活気付いているように見える。
念のため記しておくと、市が(周辺の市町村はみなそうなのだが)除染を進めているので、手持ちの線量計でみても、駅周辺の空間線量は私の住む神奈川県の放射線量よりも低い値になっている。
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7:49 いわき駅から常磐線下り富岡駅行きの列車に乗る。前回訪れたのは2016年の夏なので1年半振りだ。
いわき〜富岡間は1日11往復のローカル線だが(途中の広野駅まではもう少し便がある)、通勤時間帯にはそこそこの数の乗車がある。役場の職員と思われる人、何らかの現場作業を請け負う人。それぞれの人生…。
数名の高校生が乗り込み、そして広野駅で降りていった。2015年に開校したふたば未来学園高校の生徒だろう。震災前には双葉郡に5校あった福島県立高校はひとつの高校に集約された。双葉の未来を…背負うの?…。広野には東電の火力発電所があるので(降りたことはないが)相応の人の出入りと生活がそこにはある。ここで発電された電気はもちろん関東地方に送られるわけだ。
木戸駅より
8:17 木戸駅に着くと10人弱の人が降りた。福島県双葉郡楢葉町 前原・山田浜地区。低く平坦な土地で一面が見渡せる。この地を訪れるのは4回目で、今では地図が無くても歩ける。楢葉町で原発事故に伴う避難指示が解除されたのは2015年9月のこと。それから2年半が経つ。
時折小雨が混じる寒い日。夏とはまた違う景色がそこにある。静かな、そして何事もなかったかのような感覚すらある。瓦礫は全て片付けられ、津波で大破した家屋もすでに無い。ラジオ体操の放送が朝の始まりを告げる。海辺の土地はもともとが畑だが農作業をする人はいない。
防波堤の工事もだいぶ進んでいた。いわきナンバーのトラック数台が通り過ぎ、運転手は皆軽く会釈を返してくれる。役場の乗用車も数台。こちらは現場の巡回だろう。囲いの中で防災林用と思われる松の苗木を育てていて、その向こうに火力発電所の煙突と煙が見える。ゆっくりとした時間が流れている。
駅前には住宅地が少しあり、人の気配こそ無いが家は整えられている。避難指示が解除されたにせよ、小さな地区には病院や学校も無く商店も郵便局も閉鎖されたままであり、定住し生活をしていくことが困難であることは想像に難くない。震災から7年が経ち、新しい土地で新しい生活を始めた人も多い。現在この地区の居住者は56世帯128人と記載されている。
富岡駅より
9:49 木戸駅発。常磐線竜田駅〜富岡駅間が復旧したのが去年2017年10月21日のこと。10:00 富岡駅着。ここは海岸線からほど近く、津波で駅舎が流された写真がよく知られている。夜ノ森方面の信号機に貼られた×がこの先の不通区間を明示する。駅を出るとバスターミナルがあり、区画整理だけされた駅前が印象的だ。
ここでもやはり巨大な防波堤の工事が進められている。コンクリートの壁に阻まれその先の海は見渡せないが、工事現場の入口を左に逃げると富岡川にかかる橋がやや高台にあり、そこから防波堤の建設作業の様子と港の復旧工事の進み具合を眺めることができる。聳え立つかに見える防波堤の形状は意外にになだらかだ。河口左岸には、錆びついた漁船が震災そのままの状態で岸に繋がっている。
福島第1原発から10キロ地点にあるこの富岡町はまた第2原発を抱える町でもある。今は帰還困難区域にある一角には東電社員の住む高級住宅地があったとも聞く。漁港がありサッカーの盛んな高校がある豊かな町。平成29年12月1日現在の居住者数376人。震災前の人口は約1万6千人。
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11:30 富岡駅発の代替バスに乗車する。駅を出ると新築の復興住宅が並び、程なく帰還困難区域に入る。国道6号線を走るバスと第一原発の位置関係をグーグルマップと線量計で確認する。12:00 浪江駅着。
浪江駅より
浪江もまた津波で甚大な被害があった町である。しかし住民にとって一番辛いのは、翌朝には原発10キロ圏内の警戒区域となり、地震の後片付けも津波の行方不明者の捜索もままならぬまま土地を離れなければならなかったことではないか。「2〜3日で自宅に戻れる」と考えていた人も多かったと聞く。
浪江駅の周辺。夜はネオンが灯る原発の街も今では全くの無人と化している。一方で立派な建物の浪江町役場は忙しく稼働中だ。隣接する仮設商店街の飲食店も賑わいを見せる。私が富岡駅に着いた時改札を塞いでいた都内からの男性グループが1便前のバスに乗って行ったのだが、なんのことはなくここ仮設商店街で再度遭遇する。おそらく視察目的なのだろう。インフラ整備のための巨大な公共事業が今まさに動いていることを実感する。国道は多くの工事車両が往来する。土地の造成や堤防の工事はある意味でわかりやすい復興の形ではある。海から遠く津波の被害こそ無かった浪江駅の周辺はまた違った姿を見せている。
住宅を少し外れて歩けば美しい川の流れがある。地図を確認し、高台にある丈六公園に行ってみようと思った。家族が楽しめる自然の豊かな公園だという。入口付近には、滑り台やブランコなど遊具が置かれた広場があり、土も入れ替えられ丁寧に除染されているように見える。だが、やはり線量は相当に高くそれ以上中に立ち入ることは断念した。公園のすぐ西隣はぽっかりと残された帰還困難地域にあたる。
住宅の除染はともかく、木々の生い茂る生活の環境を整備していくのは難しい。震災前には2万人が暮らしていた浪江町は、平成29年11月30日現在で人口306世帯440人と記載されている。
終わりに
考えることが多すぎる。ただ、どちらにしても全てを知ることは不可能なのだ。結局今回は住民の方とすれ違うことすらなかったが、復興についてあるいは帰還について、住民の方の意見が十分に反映されることこそが大事だ。避難指示が解除されることによって賠償や住宅支援が打ち切られるという現在の状況には違和感を感じざるを得ない。
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14:16 に浪江駅を出発する。途中小高駅から詰襟を着た男子学生の集団が乗車してくる。小高産業技術高等学校。去年4月に工業高校と商業高校が合併し開校したそうだ。復興の目に見えない境界線はくっきりと引かれている。
- ふくしま復興の歩み<21版>平成29年11月20日発行
- ふたば未来学園高、1期生が卒業(福島民報 2018年3月1日)
- 楢葉町内居住者集計表(H30 1月31日現在)
- 避難地域12市町村の詳細
- 富岡町「復興状況と町の現状」(平成30年12月更新)
- 「なみえ復興レポート」は逐次更新されているのでこちらから
- グリーンピース 「国連人権理事会の勧告を受け入れて、東京電力福島第一原発事故被害者の人権状況を改善してください」
- 福島県双葉郡楢葉町 木戸駅と竜田駅と 2016-08-06
- 福島県双葉郡楢葉町 木戸駅より竜田駅まで 2015-06-29
木戸駅と竜田駅と
福島県双葉郡楢葉町は原発20キロ圏内にあり、去年(2015年)9月に町内全域全てが避難指示解除された。(避難区域の変遷について-解説-)。私もほぼ1年ぶりにここ楢葉町を訪れた。−前回の訪問についてはブログ「木戸駅から竜田駅まで」に。
前夜はいわきに宿泊。翌朝、常磐線下り5時49分発の列車に乗る。初めの目的地である木戸駅までは25分で到着。駅の目の前の住宅に「住民無視の建設を中止せよ」との垂れ幕がかかる。ここから木戸川へ向かう道に沿って住宅地を歩き始める。
平日(火曜日)の朝6時過ぎ。小さな通りを次々に乗用車が通過する。その一方で私が「人の気配」を確認したのはわずか3軒、郵便局も小さな商店も閉鎖したまま。家屋や庭を見れば概ね手が入っている様子なので、おそらく多くの「元」住民は、週末を過ごすために避難先から自宅に通うのだろう。ここで「生活」を再開した人はまだまだ少数のようだ。−「避難指示解除後の町内帰還世帯・人数について」によると、前原地区では7世帯14名が帰還。楢葉町全体の帰還率は8.7%。年代で言えば55歳以上の人がほとんどだ。
木戸川沿いまで歩き、右折して海に向かう。5年前放置されたままの牛舎が痛々しい。遠くに仮置場の白い建物が見える。前回は高台の天神岬から見下ろして、黒いフレコンバッグで広大な畑地が埋め尽くされる風景に驚いたものだ。
海岸線はもうすっかり姿を変えてしまっている。去年までは海岸にたどり着けたが、今は高い堤防の基礎が海岸線を覆い隠し、工事のため立ち入りができなくなっているのだ。計画書によれば防波堤の高さは8.7m。堤防の手前には盛り土をして防災林を植えるそうだ。−「福島沿岸海岸保全基本計画」(第2 海岸保全施設の整備に関する事項)を参照。
6月30日付の毎日新聞の記事。東京電力福島第1原発事故に伴う福島県内の汚染土などの除染廃棄物について、放射性セシウム濃度が1キロ当たり8000ベクレル以下であれば、公共事業の盛り土などに限定して再利用する基本方針を環境省が正式決定した。また、環境省の非公式会合で、同5000ベクレルの廃棄物が同100ベクレル以下まで低下するには170年かかる一方、盛り土の耐用年数は70年とする試算が出ているとも。なんということだろう…。番号をつけて整然と並べられた汚染土は防波堤の下にそのまま埋められるのだろうか。
最後まで残っていた津波に削られた家屋も今は全て取り払われていた。代わりに「津波浸水区間ここまで」の看板が掲げられている。木戸駅へ戻る途中に何台もの車とすれ違う。公用車らしい車は、おそらく現場で指揮をとる役場のものだろう。軽く会釈を返してくれる人もいる。
木戸駅8時19分発。10人程の乗客と入れ替わりに、再度ひとりで電車に乗り込む。車内には想像以上に込み合っていて、皆、次の(現在の)終点竜田駅へと向かうのだ。8時23分着。50人ぐらいが降車。建設関係と思われる会社の朝礼が聞こえる。ここ竜田には町役場もあり、多くはいわき市から通勤してくるのだろう。観光客(?)らしい人が4〜5人。
福島第一原発まで16キロ。ここ竜田駅より小高駅までの36.6キロ区間は帰還困難地域に入るため、現在不通となっている。竜田駅は高台にあり、去年訪れた時には駅から海が見渡せた。今は土が高く盛られその視線を妨げている。「宅地分譲中」の看板がある。−「楢葉町土地利用計画アクションプラン」によると、「廃炉関連企業等をJR常磐線竜田駅東側の結節拠点に集約し、鉄道や自動車等の移動性や企業活動の効率を高めることが必要。また、企業就業者の居住・生活機能を事業所近隣に整備する。」(p.14)ということだそうだ。
海に向かって降りてみることにした。
徒歩20分ほどで海に着く。谷あいの小さな集落。工事は始まってはいたが、ここからはまだ海が見える。正直を言えば少し嬉しかった…。海が見たかったのだ。ビデオ。
残酷だなと思う。波は繰り返し打ち寄せるが、時間は5年前から止まったままのようだ。震災では津波で多くの命を失ったが、住む土地まで追われなければならなかったのは原発事故があったからなのだ。住民の方達の失われてしまった時間を私たちはどう償うのだろうか。東京電力管内に住む私たちの電気は福島から来ていたのだ。5年前に私たちは初めてそのことに気づいた。だが、5年経った今、そのことを全く忘れてしまったかのような政策が進められ、そして私たちは結果としてその政策に加担しているのだ。
竜田駅より先、小高駅までは、現在代行バスが1日2往復している(2015年1月15日より)。10時5分発のバスは国道6号線浜街道を北上する。車内には線量計が設置され、車内の空間線量はモニターされている。
木戸駅より竜田駅まで
2年前2013年9月に友人3人でこの場所に来た(左の写真)。後から調べて、この場所が楢葉町前原・山田浜地区だと知った(翌年2014年の展覧会『うつくしいくにのはなし』で取り上げたのでよかったらご覧ください。テキストも是非)。
楢葉町は福島第一原発の20キロ圏内では比較的線量が低く、避難指示解除準備区域となっている。避難指示解除準備区域とは住民の立ち入りは可能だが夜間宿泊はできない区域という意味である。除染も進み去年2014年6月には不通だったJR常磐線の広野〜竜田間も開通した。今、再びこの美しい地を訪ねてみたいと思ったのは、政府の原子力災害現地対策本部は今年のお盆前に避難指示を解除する方針であり、現在住民との話し合いが持たれているとの記事(福島民報2015年6月18日付)を読んだからだ。
いわき駅に入ってきた電車からは多くの子供たちが降り、それと入れ代わるように竜田駅までの常磐線に乗る。目的の木戸駅までは20分程、住民らしい数人とともに無人の駅に降りた。地図は家に忘れてきたがGoogleマップで何度も見ているのでこの地区の様子は頭の中にある。ここから海に向かって歩くだけだ。今日(6月28日)は日曜だが、住宅地にはほとんど人影はない。もちろん除染等に携わる作業員もお休みだ。
奥に住宅が見える。かろうじて家の外観は保っているものの津波の爪痕は深く刻まれている。さすがにカメラを向けることができない。いたたまれない気持ちだ。避難はできたのだろうか…。木立の背後、目と鼻の先が海なのだ。
花、そして津波に耐えた木々。想像していたより激しい波が打ち寄せるテトラポットの海岸。冬はもっと厳しいのでは。赤いコーンの先は行き止まり。
左手奥の高台は天神岬だ。除染で出た放射性廃棄物は黒いフレキシブルコンテナバッグに入れられる。意外なほどに線量は低く、どの辺りで測っても0.10~0.12μSv/hを保っている。実際、神奈川県のうちの近所でも0.10μSv/h位は普通に出るので、あまり変わらない状態だとも言える(自治体の公式の発表では0.05μSv/h位だが、丘を切り崩して造成している土地は飛散した放射性物質が溜まりやすいのだろうと思われる)。
前原地区の広大な仮置き場。ところで阿武隈高地に連なる何という山なのだろうか。
雨が多少強く降って来た。ちょうどこの辺りで車で移動する住民の方と出会った。3日に1度ほど飼っている鳩に餌をやりに自宅へ来るらしい。同じ前原地区でも彼のようにちょっとの差で津波の被害を免れた人もいる。自宅のリフォームも済みいつでもこの地に戻る準備はあるという。しかしインフラもまだ、瓦礫の撤去も帰還と並行して行う、という状態に不安を感じているそうだ。住民も戻る人と戻らない人とに分かれる。国は年間の被曝量の限度を1ミリSvから20ミリSvへと引き上げているが、彼の言葉の端からは年間1ミリSv(0.23μSv/h)の線は譲れないという意思が伝わる。当然だと思う。木戸川橋の手前まで送ってもらった。鮭が遡上する美しい河川。津波はこの川をも掛け上がったが…。
橋を渡ると北田地区。相変わらず周辺の宅地には人の気配がないが、道路の信号は動いており、時折自家用車とすれ違う。車の中からの視線を感じる。こちらは明らかに住民ではない…。
小高い丘を登ると木戸川を挟んで前原地区にある広大な仮置き場がはっきりと確認できる。黒いバッグはすでにシートで覆われている。
奥に見える煙突は広野にある火力発電所。原発事故後初めて福島から東京に電気が送られていたことを知ったのだが、この広野火力発電所からも関東に電気が送られている。
前原地区と奥に続く山田浜地区を見下ろす。YouTubeにはこの辺りから撮られた津波の映像もある…。
展望台から見た反対側の景色。第一原発まで15キロぐらいか。事故さえなければ「遠い」と感じるだろう。天気が良ければ第二原発は見えるのだろうか。まだ廃炉の決定はしていないはずだ。
ここから竜田駅までは徒歩で30分ぐらいの道のり。道なりに歩くと、途中地元の土建業者だろうか、20台以上のトラックが止められていたりする。生活とは言わないが人の動きは想像出来る。
竜田駅周辺。楢葉町役場があるところだがやはり人気が無くひっそりとしている。小学校はもちろん閉鎖中。この辺りはスポット的に線量も上がり0.3~0.5μSv/hを超える。「ようこそ ならは町へ」。
常磐線はここ竜田駅で折り返しだ。富岡側は現在も不通、信号に貼られた×印が痛々しい。この先には有名な長いトンネルがあるそうだ。
そして海を望む相変わらず美しい景色。失ったもの…は大きい。
- 2016年8月2日に再訪しました。
追記(リンク切れがのものは出典だけ残してあります)
9月5日に先送り 楢葉の避難解除 政府「来月10日」断念(福島民報 2015年7月7日)
楢葉町避難解除へ:副経産相「安心は心の問題」(毎日新聞 2015年7月7日)
記者の目:避難指示9月解除の福島・楢葉町 栗田慎一(いわき通信部)(毎日新聞 2015年7月7日)
福島・楢葉町 原発事故に伴う避難指示解除 (NHK NeswWeb 2015年9月5日)
楢葉の避難指示解除 全町避難自治体初 双葉郡復興先駆けに (福島民報 2015年9月5日)