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木戸駅と

木戸駅近くに宿泊したのは、日が昇る福島の海を見たいと思ったからだ。日の出は6時20分頃だから6時前には着きたい。空気は冷たいが風も無く、耐えられないほどの寒さではない。駅から山田浜までは直線距離にして1.2キロ、昼間ならば徒歩15分といったところだろうが、途中からは先は街灯も途絶え(舗装もされていないので当然だ)、真っ暗闇をすり足でそろそろと歩くことになる。前日に下見をしているとはいえ目印も無く堤防の昇り口に迷う。

堤防に登ると全方向に障害物は何もない。山側、つまり駅の周辺と国道6号線沿いには灯りが見える。厚い雲の隙間から僅かに紫色に染まる空が見える。

巨大堤防の先がすぐに海なのではなく、つまり、堤防の先には使われなくなった旧国道が残っているのだ。数メートルにすぎない低い防波堤は為す術もなく決壊した。ここで初めて津波の傷跡が見える。古いテトラポットと震災後に補強のために置かれただろう新しいそれとが混在している。流木は最近打ち上げられたものか。この場所も追々は「きれいに」整備されるのだろう。

日が昇ると、ジョギングをする男性の姿が遠くに見渡せる。12月15日には、「Jヴィレッジハーフマラソン」という大会があるらしい。そこには人の暮らしがある。赤い小さな鳥居と祠、それから慰霊碑。周囲にはまだ何もないが、そこに防災林が育つのだろう。

祈念碑に刻まれた文字は以下。

 ふるさと

2011年3月11日午後2時46分、マグニチュード9、楢葉町で最大震度6強の東日本大震災が発生。その後、大津波が何波にもわたって襲来。沿岸部では最高10メートルを超える巨大津波に襲われた。
この地区に住む人々は、声を掛け合い・助け合って上ノ代の地区集会所へ逃れた。しかし、津波によりこの地域の25世帯の全家屋等が流失、一人の命が奪われた。更に、その後起きた福島第一原子力発電所の事故により、楢葉町全町民が町外へ避難せざるを得ない事態となった。
その後、山田浜沿岸部は防波堤・防災林・県道の構築と復興が進み、震災前ここで生活していた人々はこの地に戻って住めない状況となった。
 古代よりこの地を生活の場としてきた住民は、全て他地域に新たな生活の場を求めることとなった。
「ふるさとを失った・・・・・」 
この地を去った人々の新たな歴史について、安らかな繁栄ある生活を願うとともに、東日本大震災の記憶を後世に伝え、今後大自然災害が起きないことを祈念し、この碑を建立する。


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