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木戸駅と Ⅱ


2019-07-23


木戸駅と《2019.0723.17:36》

仙台から常磐線各駅停車で南下する。現在の不通区間は帰宅困難地域である浪江⇆富岡間で代行バスが走り、2020年3月末までの再開を目指している。富岡から2駅。富岡→竜田→木戸。2013年夏に初めて木戸駅のある前原・山田浜地区に降り立ってから今回で5度目の訪問となる。細く降りしきる雨。17:15に木戸駅(福島県楢葉町)に着く。次の電車は18:31発だ。

自分にとってはすでに懐かしい風景となっている。去年(2018年)訪れた時には土が積み上げられただけだった堤防の工事も終わったようだ。高さにして7メートルぐらいだったか、福島の全ての海岸線を覆うのだ。真新しい県道が引かれ、あとは周囲の植栽とガードレールの整備だろうか。一日の終わり。誰もいない堤防の上から福島の海を見下ろす。雨のせいか、波は少し荒れて見える。

帰還できぬまま打ち捨てられた家屋は取り壊され、代わりに単身者用のアパートとなる。一軒の窓に灯がともり、テレビの音が漏れ聞こえる。


2019-12-06


木戸駅と《2019.1206.15:17》

震災から8年目となる今年(2019年)3月、福島県から自主避難した人への家賃補助の打ち切りが話題になった。どこかで線引きをするにしても、住民ひとりひとりに寄り添ったきめ細かな政策決定が必要だ。オリンピックを目前に控え、期限を一律に切ったとして、それは真の復興に近づくものだろうか。復興とは何か。

木戸駅と《2019.1206.15:37》

風景も大きく変わった。瓦礫の処理作業も終わり、仮置き場だった敷地の囲いは外され、大量に積み上げられたフレコンバッグの背丈は低くなり、緑色の分厚いシートで丁寧に覆われている。もっともこれら大量の除染廃棄物は、また別の場所へ、中間貯蔵施設へと移動するのだが。

遠くに見えるのは広野の火力発電所。首都圏に電気を送るのがその役目だ。海岸線を覆い尽くす巨大堤防も完成した。河岸はコンクリートで固められ、そこから美しい弧を描いて高い堤防へと接続する。


2019-12-07


木戸駅と《2019.1207.06:12》

木戸駅近くに宿を取ったのは、朝日が昇る福島の海を見たいと思ったからだ。日の出時刻は6時20分。6時前には海辺までたどり着きたい。空気が冷たいが風はない。駅から山田浜までは直線距離で1.2キロ。昼間なら徒歩15分だが、途中から街灯も途絶え、真っ暗闇をそろそろとすり足で歩く。前日に下見をしたのだが、目印も無い堤防の昇り口に迷う。

視線を妨げるものは何もない。厚い雲の隙間から紫色に染まる空がわずかに見える。

木戸駅と《2019.1207.07:03》

巨大堤防のすぐ下には、使われなくなった旧国道が残っている。ここであらためて津波の傷跡を見る。数メートルにすぎない防波堤は為す術もなく決壊した。新しく積まれたテトラポットと黒ずんだ古いそれと、風景の中に混在する。記憶と再生と。風景は、いつか心の中で再生するのだろうか。

木戸駅と《2019.1207.07:16 》

赤い小さな鳥居と祠、記念碑。人の暮らしのあと。そこにまた、木々は育つのか。

 2011年3月11日午後2時46分、マグニチュード9、楢葉町で最大震度6強の東日本大震災が発生。その後、大津波が何波にもわたって襲来。沿岸部では最高10メートルを超える巨大津波に襲われた。

 この地区に住む人々は、声を掛け合い・助け合って上ノ代の地区集会所へ逃れた。しかし、津波によりこの地域の25世帯の全家屋等が流失、一人の命が奪われた。更に、その後起きた福島第一原子力発電所の事故により、楢葉町全町民が町外へ避難せざるを得ない事態となった。

 その後、山田浜沿岸部は防波堤・防災林・県道の構築と復興が進み、震災前ここで生活していた人々はこの地に戻って住めない状況となった。

 古代よりこの地を生活の場としてきた住民は、全て他地域に新たな生活の場を求めることとなった。

 「ふるさとを失った・・・・・」 

 この地を去った人々の新たな歴史について、安らかな繁栄ある生活を願うとともに、東日本大震災の記憶を後世に伝え、今後大自然災害が起きないことを祈念し、この碑を建立する。

ふるさと (祈念碑に刻まれた文字より)
2019.1207.07:10_2 (参考)
「木戸駅と Ⅱ 」表紙

「木戸駅と Ⅱ」作品集


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