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デモにて9

暑い夏になる。8月6日「広島平和宣言」9日「長崎平和宣言」「被爆者代表のスピーチ」。核兵器のない未来、戦争の無い未来を願って。しかし川内原発は再稼働される。


8月7日(金) 戦争法案に反対する国会前抗議行動


このところずっと封鎖されていた国会前の横断歩道も今日は開放されている。SEALDs単独のデモは久しぶり。

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8月に入り、デモ日記を書き始めて1ヶ月半ほど経つので、SEALDsについての自分の立ち位置を簡単に記しておく。以下はFB上での友だちとのやり取りの中で書いたことをまとめ直したもの。

6月19日に初めて彼らに国会前のデモに参加し、その時のデモ参加者の人数は300人ぐらいだったのだけれども、その潜在的なパワーに驚いたし、それは私には魅力的に映った。SEALDs自体は6月から行動を開始したばかりの団体だったので(SASPLという秘密保護法に反対した学生の会が前身ではあるが)、私としては早い時期に彼らの動きに注目をした方だろうと思う。その時、直感として「何か」が動くなと思ったし、それ以来彼らの行動の趣旨とその手法に対しても共感を持って見ている。だからデモ参加者として賛同の気持ちを持ってその場所に赴くし、同時に彼らの運動がどういう軌道を描き、それがどのように世間に受け入れられるか(あるいは受け入れられないことについても)について、彼らに敬意を払いながらリアルタイムに「観察」をさせてもらっている。

その後程なく彼らはSNSやマスコミで取り上げられ、週を追うごとにデモへの参加人数が増えるが、一方でそれが1000人、10000人と増えた時、いろいろと軋みが生じることの予想はついたし、ネトウヨなどは振り切れるだろうけれど、この形態での運動の在り方は、まさに自分と同じ世代、つまり働き盛りの男性層(自分は残念ながらそこに含まれていないのだけれども)と感覚的に抵触するだろうことも初めから想像していた。実際にその世代がデモへ参加することは少ないし、それは単に忙しすぎるだけでもないと思う。行動が広がりを持つ過程で発生するエネルギーに対して感じる「得体の知れなさ」や「気持ちの悪さ」の感覚も同世代としてもわからない訳でもない。

SEALDsのメンバーたちは、自分の身体感覚を大事に自分自身が選択した言葉で私たちに語りかける。それが共感を持って多くの人に受け入れられているし、一般に思われている大学生のイメージ(?)よりも安全保障や集団的自衛権についてもはるかに広い知識を持っている。デモの場で彼らの発する言葉ひとつひとつを受け取るのは素敵なことだ。だが、報道やネット上にそれが流れる時、彼らの発言の一部(身体の一部と言っても良いかもしれない)を切り取ってしまうことで、それが見えづらく伝わりづらくなってしまうのは残念ながら仕方がないことかもしれない。

ところで、SEALDsという集団を本当の凄さは、すでにネットを通して知られるあの「コール」(それはもう従来型のシュプレヒコールとは全く別物)に於いて、「民主主義ってなんだ?」という「問い」を図らずも発見してしまったことにあると思う。私たちの世代(バブル世代と言ってもかまわない)は、戦後当たり前のように「民主主義」が実現されているように思っていたのだけれど、今まさに「民主主義」の危機だという事態に直面し、実は「民主主義」について多くの人間に(もちろん自分も含めて)、それを確かめようという発想が無かったことに気づかされる。「民主主義ってなんだ?」というシンプルな疑問は、結果的に「自ら」に対して繰り返し投げかけられることになる。

そして彼らの用意した答えは「民主主義ってこれだ!」。そう「これ」なのだ。指示代名詞として中身は提示されていないけれども、私たちが同じデモの場所に立つことによって、「これ」は身体感覚を伴っての認識が可能になる。「これ」が個人個人の身体感覚を伴って横に連結され、また「これ」はそれぞれの意志を持って切断され、それがまた別の場所で別の個人の「これ」と再度連結され、そうやって中心を作らずに水平方向にどんどんと広がりを持っていく。それが関西や東北で立ち上がったSEALDsであったり、高齢者が立ち上げたOLDsであり高校生のT-ns Sowlであったり、子どもを持つ母親であったり安保法制に反対する創価学会員にまでも繋がってきている。それらはさらに別の集団とも連結可能でもある。こうして中心を持たない緩やかなシステムは、上意下達型のにそれに楔を打つことになるだろう。

SEALDsの主催するデモには「戦争法案に反対する国会前抗議行動」という名前が付いている。だからSEALDsについて取り上げる場合、「自分は戦争に反対である」という意思表示だけでは不十分となり、「戦争法案に反対か否か」こそが問われていることに注視したい。これは同じように見えて意味としてまったく違う。

周知のとおり、現政権になり国家安全保障会議(日本版NSC)、特定秘密保護制定、武器輸出3原則原則廃止、他国軍への支援を解禁するODAの決定と「積極的平和主義」の具体化が進んでいる。ここに「安保関連法案/戦争保安」が加わった時には、取り返しのつかないだろう状況になるのは一目瞭然だ。戦争へ向けた歩みを止めるためにその最終的ラインを見極めるのが今問われていることなのだ。「大げさだよ!」という総理の発言をどう捉えるか(ちなみに安全保障の問題は別途考える必要はある)。SEALDsの戦略は、ここをあえて「戦争法案に反対か否か」一つに絞ることにある。端的に言ってこの法案は憲法違反の疑いが非常に強い。ちなみに未だに間違えている人がいるのだが、この場合の「対案」は不要だ。

解釈によって憲法を変えることを許してはならない。それが「戦争法案に反対」の意味する重要な部分だ。集団的自衛権は新3要件で限定しても違憲であり、さらに総理が固執し続ける砂川判決はその根拠にはならないことはすでに明らかなのだ。もし仮に集団的自衛権を行使するのであれば正当な9条の改憲手続きを取らなければならない。立憲主義が否定されこの暴挙を許したときには行き着く先は自民党の提示している憲法改正案で明らかだろうと思う。その時憲法9条は役割を終え、基本的人権は戦前のように無きものとなる。その危機感を共有できているかと今問われている。


SEALDs山本雅昭さんスピーチ
 『日本の安全保障のために多少の犠牲やリスクはやむを得ない』っていう日本語のおかしさがわかりますか?


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