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映画の(東京公園/青山真治監督)

『東京公園』という青山真治監督の映画が好きで、今日はiPhoneでAmazonからダウンロードして見ていました。この映画は青山監督にしては珍しくホッとする映画です。

動体視力を鍛えるため(?)以前は映画館で見た映画を2〜3日かけて頭の中で反芻し、ブログに書き起こしたりしていました。以下は2011年6月のポスト。もし良かったら秋の日の映画のお供にどうぞ。

公式サイトはもうなかったのでトレーラーを。


東京公園


青山真治監督

前作の『サッド ヴァケイション』から4年。青山真治監督の最新作『東京公園』を見た。始まって数カットでカメラの動きが従来の青山作品と全く違うのに気付く。目は意外に色々なことを憶えているものだ。

写真家志望の光司(三浦春馬)は公園に集う家族の写真を撮っている。家族に撮影の許可を得る、つまり被写体と撮影者との関係性の中で写真を撮ることが彼の写真に対する信条らしいのだが、ある日ベビーカーを押す女性(井川遥)を見て無意識にシャッターを切ってしまう。はからずも光司はその女性の夫から「彼女の写真を撮って欲しい」という依頼を受ける。毎日都内の公園に出向く彼女の写真を撮りメールで転送して欲しいと言うのだ。もちろん彼女にはわからないように。

光司は親友ヒロ(染谷将太)と古い一軒家で暮らしている。二人はごく普通の会話を交わし、ヒロは出かける光司にDVDを借りてくるように頼む。「ホラーじゃないやつね」。ヒロは何か不釣り合いな黄色いパーカーを纏っている。光司の幼なじみの富永(榮倉奈々)は恋人だったヒロの死を受け入れられない。彼女はゾンビ映画のDVDを抱え「彼ら」の家に入り浸っている。光司にはヒロが見えるが富永には見えない。明るく振る舞う彼女がゾンビ映画に入れ込むのは現実逃避のように見える。一方の光司も幼い頃に亡くした母親の面影に縛られている。写真家を目指す彼のContaxのフィルムカメラは母親が使っていたものだ。父親の再婚によって新しい母と9歳年上の「姉」(小西真奈美)ができ、自分の感情と上手く向きあえずに育ったのだろうか。「姉」美咲と富永は光司のバイト先のバーの常連のようだ。

東京にはこんなにも多くの美しい公園があったのか。光司はヒロからデジカメを借り受け、そのモニター越しにベビーカーの女性を見る。一方向からの「眼差し」。ある日その女性がカメラを手にした光司に「眼差し」を向けたような気がした。光司は撮影された写真を確認するが、それはどちらとも判別し難いものだった。映画はこのあたりから動き始める。

「まっすぐに見つめる」ことは思う程容易ではない。カメラさえあれば誰でも出来る訳でないのは、それが「相手からの眼差し」も「まっすぐに受け止める」ことだからではなかろうか。「何か」に気付き始めた光司は、この依頼のことを美咲と富永に打ち明ける。「姉」の美咲も「親友の彼女」の富永も共に心に抱えた「何か」に向きあうべく、光司に対して「まっすぐに見つめる」ことを促す。映画の「眼差し」は光司、ヒロ、美咲、富永、そしてベビーカーの女性を点で結びながら進んでいく。大きな渦巻きを描くように。

光司は「姉」の美咲を「まっすぐに見つめる」ために母の形見のカメラを手に彼女を訪ねる。部屋は白い光に満ちており、テーブルの上の花瓶に1本の黄色いチューリップが見える…。一方富永は大きな荷物を背負って光司の家にやって来た。ヒロの死にもがく自身を振り払うかのように、高く積み上がったゾンビ映画のDVDをぶちまける。突っ伏して泣く彼女の横には1枚だけ残った黄色いジャケットが見える…。…そして光司にだけは見えていた黄色いパーカーのヒロの姿は、静かにその場所から消えていた..。

黄色に染まる秋の「東京公園」で眼差しは交錯し、各々の人に共振し大きなエネルギーがそこに生まれる。「まっすぐに見つめる」こととは、なんと美しい瞬間なのだろう。それぞれの新しい人生を歩み直すこととは。未来への希望とは。

[06/25/2011]


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