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『もういちど秋を』展終了しました

『もういちど秋を』展は終了いたしました。ご多忙の中遠方より足を運んで頂き、さらに40分という長い作品にもかかわらず多くの方にご覧いただけましたことを御礼申し上げます。また展覧会サイトやイベントページに興味を持っていただきました皆様に感謝したします。またの機会にお目にかかれることを楽しみにしております。

「詩」に対して映像をつけるという作業は初めての経験で困難を極めましたが、詩の内容の理解だけではなく「言葉」そのものについて考える1年間だったと思います。言葉と言葉の関係、言葉とイメージの関係、さらにイメージとイメージとの関係が言葉にどのように帰ってくるかなど、カメラやコンピュータの画面に向かいながら考える日々でした。

さらにここ6月末ぐらいからは次のプロジェクトとの関係で、近しい仲間との「言葉」についての膨大な量のやり取りの中で「体感的」に感受したことが今回の映像作品にも写り込んでいたように感じています。

現代美術的(?)に考えると「映像」はひとつのジャンルだと思いますが、今回は敢えてそういうスタイルからは距離を置いています。

「初期ビデオアート」はさておき、映像が美術の中に用いられるようになったのは、ハンディなビデオ機器が一般に普及する80年代以降のことだと思います。基本的にはパフォーマティブな作品を補完するために用いられ、それが現代に至るまで(多少の進化はあるものの)「伝統的に」受け継がれているような気がします。

おそらく商業的な「映像」と距離を置くという意味合いがあるのだろうと思いますが、例えば「映画」という映像表現の中でも、より商業的なハリウッド映画と距離を置くような先鋭的な映画人からは、逆に「アートにだけはしたくない」と、距離を置かれているというような現状もあります。

ところで武田多恵子さんの詩は、ある意味で官能的というか直接的な恋愛を描いたものなのですが、全体を通して考えると「傷」について描いているように思います(だからこそ「もういちど」なのですが)。何十年も生きていれば誰もが負うようなザラザラとした「傷」について。

Unit 1の『風景(版画論3)』に「傷つけることと 愛撫することが その手の中でひとつだ」とあります。ここでは作者の意図とは敢えて反してジゼル・ツェランの版画を引用しました(ジゼルは詩人パウル・ツェランの伴侶です)。

その他、明らかにゴッホを連想させる詩『冬の麦』ではゴッホの画集の中からも作品を引用はしましたが、幾つかの風景を撮る中で自分の頭にあったのは、それは特定の作品について模したわけではないのですが、ドイツロマン主義の絵画です。

ドイツロマン主義から派生する「ロマン」的な感覚がいろいろな土地に伝播し、それがナショナリズムと結びついていく過程について随分前から考えているのですが、それが日本の一時期にも共振し、微妙に戦争の時代と沿うような感覚について、それが今現在の日本の状況を思わせることについて。

お酒の席で、お友達が私の映像についての「ロマンチック」を語るその語り口に爆笑してしまったのですが、ほとんどの部分が正解だと思います。きっちりとした構図のロマンチックな風景画を感じるとすれば、その部分が自分なりのドイツロマン主義の解釈部分でもあるかもしれません。

ということで、いろいろ書きたいこともあるのですが長くなってきたので最後にひとつだけ。

「青い磨り硝子で見ている」

これは海辺で拾ったガラス瓶の破片です。昔はよく海岸には落ちていたと思いますが、最近はペットボトルの飲料に変わってしまってほとんど目にしないはず。友人の作家の「海のプロセス」という作品の「破片」を借りて撮りました。これが次のプロジェクトに続きますのでどうぞお楽しみに。

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