『はるかな時のすきまで 』メモ

旧田中家住宅は、味噌醸造業・材木商を営む4代目田中德兵衞(1875~1947)によって、1923年(大正12年)に木造煉瓦造三階建の洋館、続いて1934年(昭和9年)に和館部分が建設されました。90年以上の年月を経て現在に至るまで、田中邸が川口の地に姿をとどめ、そして自分がこの場所で展覧会を行うのは、少し不思議な感覚ではあるのです。

先日8月15日、73回目の(そして平成最後の)敗戦の日に考えることがありました。

埼玉県では1945年8月15日未明、中島飛行機の部品製造の拠点であった熊谷市に最大規模の空襲があり 深い傷跡を残したことが知られていますが、その時、田中家住宅がある川口はどのような状況にあったのか、それを切り口に思考を広げてみることは、自分にとって多少なりとも意味があることだろうと思うのです。

1928-1945の川口市(田中家住宅周辺)の地図

さて、上は1928〜45年当時の田中家住宅周辺の地図(右は現在)です。初めに位置関係を簡単に整理します。

田中家住宅から西へ1.5キロ程の所に川口駅があります。徒歩だと30分くらいかかるでしょうか。川口駅は1910年(明治43年)に東北本線(京浜東北線)の駅として開業しました。

南東方向に流れる太い河川が荒川です。荒川の河口域はたび重なる洪水被害があり、帝都建設の一大事業として1911年(明治44年)から20年の歳月をかけて河川の大掘削工事が行われました。 古地図上に荒川放水路と書かれているのはそのためです。荒川大橋を越えると東京市岩淵町、現在の東京都北区になります。

田中邸のすぐ西側に芝川という小河川が流れています。芝川と川口駅の間には宅地が広がり、駅南東の金井地区(図の水色のあたり)に鋳物工場が集まっていました。荒川から採れる砂や粘土が鋳型の製造に使われたからだと言われています。川口の鋳物業は明治政府の富国強兵策の基幹産業として活気付き、さらに日清・日露戦争を契機に軍需品製造へと移行していきました。

田中家は埼玉の大地主で、田中邸を含む芝川の東側は当時はまだ広く畑地が残っていました。味噌・木材で財を成した4代目田中德兵衞ですが、田中邸は芝川の水運を使った商品・材料(味噌・木材)の移動の拠点でもありました。この芝川、国道(赤い線)と荒川河川敷が交差するあたりで東に大きく迂回しているのがわかるでしょうか(下方には途切れた水路が見えます)。これは当時南平柳村村長でもあった德兵衞らによって、1921年(大正10年)から3年をかけて行われた治水事業です。

德兵衞はその後1932年(昭和7年)から1939年まで貴族院多額納税者議員を務めます。田中邸の和館部分の完成時期(1934年)とも重なりますから、この増築は田中邸の迎賓機能の強化だと想像できます。

ちなみに芝川から分岐して地域の北側を流れる新芝川は戦後整備されたもの。東側は東京都足立区に面しています。

さて、川口の空襲の話に戻ります。

埼玉県全体から見れば(あるいは首都東京と比べれば)川口市の空襲による被害は比較的限定的だったと言えるかもしれませんが、以下特筆すべきことをいくつかあげてみます。

1942年(昭和17年)4月18日、太平洋戦争開始後最初の本土空襲「ドーリットル空襲」がありました。東京、横須賀海軍工廠、横浜、名古屋、神戸、大阪等への爆撃が知られていますが、15機のB25戦闘機のうちの1機(三番機)から、日本デイゼル工業川口工場への爆撃がありました。日本デイゼルは地図で見ると田中邸から東に2キロ程離れた場所にあります。

 「午前7時30分に発艦 、先を行く一 、二番機よりもかなり南方へ迂回して 、九十九里浜から本土に侵入した 。そして房総半島を西進し 、千葉市稲毛の陸軍防空学校上空を経て 、荒川沿いに東京へ侵入した 。しばらく飛行した午後12時40分頃に 、西新井上空から機銃掃射をしつつ埼玉県川口市に達すると 、一発目の爆弾を日本ディーゼル工業に投下した 。この時 、同工場では 、昼食をとった直後であったことから 、工員が分散しており 、避難命令などの緊急処置をとることが出来なかった。

 幅35メ ートル 、奥行13メ ートルの木造建て第三倉庫の屋根を貫いた爆弾は 、倉庫内にあった鉄板類に当たった後 、コンクリ ートの床を18センチメ ートルえぐって爆発した 。地表面に近い位置での爆発だったことが災いして 、被害は大きなものとなり 、死者12名 (うち即死5名 ) 、重傷者47名 、軽傷者41名を数えた 。また工場の建物は 、直撃を受けた一棟が全壊 、ほかに工場や倉庫など八棟が半壊した 。また 、同時に発生した火災は 、隣接する第二倉庫にも延焼したが 、工場の特設防護団と川口警防団の消火活動によって消し止められた 。」柴田武彦・原勝洋 共著 「ドーリットル空襲秘話」

*日本デイゼル工業は、その後鐘淵デイゼル工業(1942年〜)、民生デイゼル工業(1946年〜)、日産ディーゼル(1960〜)と変わり、現在UDトラックスとなっています。

1945年の3月10日の東京大空襲以降、本土への爆撃は激しくなり、川口市では4月3日、4月13日、8月10日の計3回、B29爆撃機による空襲が記録されています(地図上オレンジ色部分。データ元は4月の空襲では田中邸のかなり近くまで被害が及んだようです。近くを流れる芝川が延焼を食い止めたかにも見えます。

東京に隣接する川口は東京へ空爆のための侵入経路でもあるのですが、日本軍の高射砲により追撃されたB29が川口市内に墜落したという記録が2件ありました。

3月10日青木町芝川公園内(現在の川口オートレース場)「東京攻撃後、高射砲弾命中により川口市青木町芝川公園一帯に墜落。川口市江戸袋952番地吉田勝次方に墜落死体1、氏名不詳2名がパラシュート降下により拘束され、東京憲兵隊から東京陸軍刑務所に送致、5月25日の空襲により焼死した。」

4月14日川口市原町15番地(川口駅の西側)「川口市領家上空で高射砲弾の直撃をうけ、同市内古河電気工業双葉工場西側の田園に墜落炎上した。現場附近で発見された2遺体は火葬の後、荒川放水路堤外に埋葬、戦後墜落現場残骸中から9遺骨が回収された。」

田中邸が戦火を免れたのは偶然ではありますが、その偶然も貴族院議員まで上り詰めた德兵衞と、同じ川口の地で生きた庶民とでは同等であるとは言い難い。戦争について見据えていたものは両者で相当異なるだろうと想像します。

地図上で見ると鋳物業者の集まる金井地区への空襲被害は少なかったように読めます。戦争末期には徴兵による人手不足により工場の稼働もままならなかったとも聞きますが、それが戦後になり「キューポラのある街」として復活し、戦後復興と高度成長を支えました。ちなみに5代目田中德兵衞は1949年(昭和24年)から4年間川口市長を務めています。

6代目の田中德兵衞は、戦後すぐに家業の味噌事業を再開・拡大ししますが、1960年には味噌醸造からは撤退し小売のみに専念します。その後モータリゼーションを見越し1964年に川口セントラル自動車教習所を設立、1966年には高級外車の埼玉総代理店となり輸入車の販売へと商売の軸を移していきました。一方で戦後復興を支えた川口の鋳物業は1973年のオイルショック以降衰退していきます。東京のベットタウン化する戦後の川口の歩みを振り返る時、田中邸を軸に時代が揺れ動く様が見えたりもします。

田中家住宅が代々続く家督としての田中德兵衞の手から離れ、文化財として川口市が管理するようになった今、そこに田中德兵衞一族の歴史以上の、同時代を生きた多くの人たちの各々の時間をも抱え込む装置となったように思います。

この田中邸での展示の話を頂いた時、正直とても難しい案件だと感じましたし、実際に作品制作に取り掛かるまではずっと迷いがありました。「アート」を成立させる手段として建物が孕む時間性と自分の感覚とを作用させることには抵抗感があり、もう少し外部の流れを感じてみることで、周縁と繋がる可能性を考えることが今回の作品展示の課題となると思います。内部と外部が、さらにその外部とまた別の外部がどのように関連を持ち(あるいは持たずに)、大きな時間の流れの上で微細にうごめきあっている。そのひとつひとつが小さな物語を持ち、生まれては消え、また生まれては…。

「はるかなる時のすきま」展は8月28日より開催。

展覧会については▷


Comments

  • 中根さま
    いつもご案内をいただきありがとうございます。福島の堀です。
    埼玉生まれ育ちで、縁もゆかりもないのに実家は川口市で、鋳物工場がつぶれてマンションタウンになったあとの住人でした。従って何の愛着もない川口でしたが、住まなくなってみると、かつての活気がそれでもなつかしいような、寂れ感があります。
    盆栽町、川口グリーンランドなどときいたことはあっても訪れたこともないのですが、川沿いに考えると、足立区や北区と同じような雰囲気があり、長谷川利行がふらふらした荒川放水路などの場末工業地帯を延ばしていった場所です。
    私が住んでいたのは昭和末期までですが、うまいだんご屋や古本屋などがあったり、町の匂いはよかった。いまは見る影もなく、おそらくどこの地方でも起こっていることでしょう。小ぎれいになって文化にまわす予算もできた頃には、町の活気は冷え込んでいる矛盾。
    伺えることをたのしみにしております。

  • 堀さま コメントをありがとうございます。昔藝大にいたころ足立区の綾瀬に住んでいて、荒川沿いをそのまま上っていくと埼玉(川口)だなと思ったのですが、意外に遠くて途中で引き返しました。足立区に旧日本軍の高射砲があったのは聞いたことがありましたが、撃墜されると川口に落ちるとは…。
    展覧会にご興味をお持ち頂き感謝いたします。お時間が合えばお目にかかりたく存じます。中根

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