オレガノの 5

oregano
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自分はひと月に一度、とある重度の知的障害者の方の通所施設で働いている。午後の2時間ほど「アート」という活動を、スタッフの方と10人弱の利用者さん(つまり障害のある方たち)と一緒に行う。もう8年にもなる。8年ともなればスタッフもほとんどが入れ替わったけれど、利用者さんのうち4名とは8年間ずっと一緒。講座は移ったけれど同じ施設で顔を合わせる人が2人、講座は一緒にならないけれど顔見知りの人が3人。

「活動」といっても、それそれの方に得手不得手があるので、スタッフと一緒に、何をするかゆっくりと考える。福祉の仕事をする人はもともと手先が器用だったり、想像力が豊かな人が多い。金曜日の、つまりスタッフにとってもハードな1週間の最後の活動を、楽しくゆったりと過ごしたいと考える(彼らはスマートで頭が良い優秀な人たちだ)。

ビーズのタワーを作ったり(ビーズに糸を通すのが得意なのだ)、先日は「ちびまるこちゃん」の家を作った。傑作だ。断言する。去年は「笑点」のセットも作った。客席付き。山田くんもいる。スタッフみんなで歓声をあげ、施設長に見せに行く。別に障害者美術展が目的ではない。

私ができることは限られている。正規の美術教育も受けたのに、しかもイギリスにまで行って勉強して、20年以上もアーチスト活動をしているのに、できないことだらけなのだ。ビーズはぶちまけるは…、さくら家のコタツを囲む家族の並び順だって知らない。「落ちてるよ」って一粒のビーズの場所も教えてくれる。個展があると彼らみんなで来てくれる。銀座にも外苑前にも。

言葉が不自由であったり、目は合わなかったりするけれど、彼らはこちらのことをずっと見ていて、少なくともこちらが言っていることは全てわかっている。時には発作があったり、介助が必要な部分もあって、自分の見えない場所でのスタッフの方たちのご苦労もある。でも自分はそこに行くのが楽しく、言葉で伝えられることこそないが、その場の一員としてまあまあ受け入れてもらっているのが嬉しいのだ。安心感がある。

酷い事件があって怒りが落ち着くまで時間がかかった。いや、まだまだ怒っている。今、彼らのグループホームの建設が住民の反対運動にあって止まっている。保育園だってそうなのだろうし、社会が寛容さを無くしているのは明らかだ。自覚的ではないのかもしれないが、自分より弱い立場にある人を切り捨てる。自分にも権利があると。だけど、それ以前に自分はもう、より強い立場にある人から切り捨てられているのではないか。「蜘蛛の糸」のように。

全ては現状の社会のシステムの問題だ。「誰か」がシステムを入れ替えたのだ。気がつかないように。それは経済のシステムとも密接に結びついている。いや、実際には「誰か」が結び付けているのだ。だからトリクルダウンなんて絶対に起こらない。だから「金め」が少しだけばら撒かれる。

「誰か」と言ったとき「ああ、政治(家)ね」と思った人は賢いと思う。でも違うな。それは「自分たち」。自分たちの無関心。福島のこと、沖縄のこと。参院選以降でも次々にいろんなことが起こっている。南スーダンだってそう。それって自分たちと遠いのかな。本当に?


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