雑感:神社

IMG_5052鎌倉で早朝からの用をすませ、気になることがあり鎌倉宮に寄った。鶴岡八幡宮より東へ、奥へ奥へと10分ほど歩くと静かなたたずまいの神社がある。鎌倉宮は「神社本庁」に属さない単立神社だ。

年始にあたるこの時期、ネット上では多少話題になっていた「神社本庁」とは、全国約8万社の神社を束ねる包括団体である。話題とは、この「神社本庁」が「神道政治連盟」の関係団体であり、「日本会議」や「靖国神社崇敬奉賛会」とも密接な繋がりを持つという点である。

周知のように、これらの団体は国会議員の組織を抱え、第3次安倍改造内閣の20人の閣僚のうち、公明党の石井国土交通相を除く(当然だが)全員が「日本会議国会議員懇談会」「神道政治連盟国会議員懇談会」「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」のいずれかの議員連盟に所属するという。

彼らの主張とは、憲法改正、総理大臣の靖国公式参拝、愛国心教育を推進し、男女共同参画や選択的夫婦別姓、外国人参政権などの政策に反対するものである。メディアへの露出度が高い櫻井よしこ氏の発言が思い浮かべれられるだろう。現在「神社本庁」は改憲・右派の国会議員に影響力があり、ロビー活動をする宗教団体としてその機能を着実に果たしていると言えよう。

話は当然長くなるので予め断っておくと、私はこの件に関する一部のサヨクの人の意見(あるいは物言い)には賛同出来かねる部分もある。子どもの受験や健康を案じ、大事な家族や友人のために神仏に祈ることは、「個人」として尊重されるべきことであり、霊験あらたかな宗教行為は、日本独自の自然観とともに大切にされるべきだろう。

現在のところ、全国8万の「神社」全てが現政権に対して同じ歩調を取っているとは考え難い。ただし「現在のところ」という点は強調しておきたい。「神社本庁」の都道府県下部組織である各神社庁には、ホームページすら無いのどかな(…とは言い切れないかもしれないが…)組織もあり、一方で東京都神社庁のようにトップページに堂々と憲法改正を掲げる組織もある。「神社本庁」の今後については私たち皆が注視していく必要がある。

IMG_5034話を戻そう。鎌倉宮は明治天皇の勅命によって創建された護良親王を祀る神社である。ちなみに天皇を祀る神社を「神宮」といい皇族を祀る神社を「宮」と呼ぶ。ある意味で重要な神社と思われる鎌倉宮がなぜ「神社本庁」から離れた単立神社なのかについて、調べても実はよく分からなかったのだが、話の方はともかく進めていきたい。

「神社本庁」に包括されない単立神社には、鎌倉宮の他、多数の参拝者を集める伏見稲荷大社や日光東照宮なども含まれる。ちなみに鎌倉宮の「社格」(神社の格式)は官幣中社だが、伏見稲荷大社は格上の官幣大社、日光東照宮は別格官幣社なので格下となる。鶴岡八幡宮は単立ではなく「神社本庁」に属するが「社格」は国幣中社なので鎌倉宮から見て格下にあたる。この辺りは現代の私たちの感覚とは少しずれるかもしれない。先日安倍首相と閣僚が9人が参拝した伊勢神宮はもちろん全ての神社の上位にある「社格」のない特別な存在とされる。

ところでこの「社格」つまり神社のランク付けは、当然のことながら1946年にGHQの指令で「神社の国家管理」が廃止されると同時に無効となっている。1948年「神社本庁」は包括する旧官国幣社を一律に「別表神社」(人事規定が別表にあるという意味。別表の中身は一律なのか?)と定めた。

今さら言うまでもないことだが、日本が近代化を模索するにあたり、その精神的規範を日本人の日常に深く根付いていた「神道」に求めた。明治新政府は神道と仏教を分離し、神社を整理統合して国家の支配下に置いた。天皇制を神代に回帰する愛国的義務を伴うアイコンとし、本来の宗教としての「神道」とは別に、しかしそれを巧妙に使って国家をイメージ化させることに成功した。これが「国家神道」である。日本は「神の国」であるという。そして私たちはその結末をすでに知っている。

「神社」というのは「神道」の入るの箱のことではなく、明治政府によって作られた国民の管理システムであるというのが今回のまとめになろうか。実際に八百万(やおろず)と言われる「カミ」は社殿が無くても存在する。一度は「国家」から切り離された管理システムが、再び「国家」の手に取り戻されようとしている現状には留意すべきだろう。

私たちは今「国家」に包括されない「個人」であることが求められている。主権は国民にある。これは当たり前のことのようだが、すでに国家権力を縛る憲法は解釈によって反故にされ、報道の自由は崩壊寸前だ。キャスターは降板する。今夏の参院選(あるいは衆参同時選か)の結果により、政権は憲法改正に駒を進めることになる。「緊急事態条項」新設の危険性について各方面で取りざたされているせいか、具体的な改憲項目については首相は黙りを決め込むようだ。

すでに指摘のあることだが、首相にして「みっともない」と言わしめる日本国憲法の、例えば第13条と、自民党の改憲案第13条を抜き出すのでよく見比べてみてほしい。

「第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。

生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、

公共の福祉に反しない限り、

立法その他の国政の上で、

最大の尊重を必要とする。(日本国憲法)」

「第十三条 全て国民は、人として尊重される。

生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、

公益及び公の秩序に反しない限り、

立法その他の国政の上で、

最大限に尊重されなければならない。(自民党の憲法改正草案 2012年版)」

気がついただろうか。ほとんど差がなくも見えるが、「個人として」→「人として」、「公共の福祉」→「公益及び公の秩序」となっている。一見してこの違いとその意味するところが目に入って来ないとすれば、たとえ憲法9条を死守したとしても、ある日気がつけば「個人」は消滅し、「国家」に対して自らを差し出す日常となっているだろう。

 

IMG_5045*長文に目を通してくださってありがとうございました。最後に、「美しい」という言葉は私たち「個人個人」が所有する大切な概念であり、美術家や音楽家の占有物でないことは当然として、その言葉は決して「国家」の持ち物ではないことを心に留めておいてください。良い2016年を。

 

 

 

 



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