展覧会雑感

yokohama

ついうっかりと言うのか、普段はほとんど見ることのない「日本画」の展覧会を見た。自分は藝大に入って1年目で「日本画」に辟易し、卒業と同時にこの世界から足を洗った口なのだ。そういう衝動は理由というよりは単に直感的なことではある。当時は「日本画」という世界に対しての「耐え難い気持ち悪さ、あるいは気味悪さ」の原因は、その特殊な公募展や市場のシステムの問題だと単純に理解していた。バブル全盛だったので「日本画」はよく売れていた(もっとも今の現状を考えれば「現代美術」でさえもその恩恵は十分に受けていたと言えるだろう)。名前が通った日本画家であれば1号あたり数百万の値段で取引されるのも珍しくない時代だった。

 

『横浜発 おもしろい画家:中島清之ー日本画の迷宮 』@横浜美術館

展覧会は副題に「横浜発 おもしろい画家」とあり、お目々パッチリの歌手が描かれたポスターを見て、なんだか私が知らない田中一村のような素敵な画家がいたのかなぁ…、と単純に思っしまっていたわけだけれども、チケット売り場で「ナカジマキヨシ テン オトナ 1マイ デスネ?」と復唱され、瞬間的に昔の記憶が蘇ってきた。中島清之は決して無名の画家では無い。

中島清之(1899〜1998)の作品については特に言うことは無い。そういう物言いをしてしまうのは無論バイアスがかかっているのだが。息子の千波(たぶん有名だと思う)よりは力強い表現力を持っているとは言える。一般の人には馴染みは無い画家かもしれないが、中島清之は院展(日本美術院)の重鎮であり、当時の私も彼の名前と作品を知っていた。ともかく学部の4年間は日本画科に在籍していたのだ。典型的な「現代日本画」であり自分にとってはそれ以上でもそれ以下でも無い。

近代化とともに西洋から「絵画」というもの、あるいはその概念が輸入され、その結果として「西洋画/日本画」という新たな「言葉」が作られた。だから「日本画」という言葉とそのシステムは日本の近代の成立と切り離して考えることはできない。そういう意味で「日本画」は最初から「官製の美術」でありシステムであると言える。

よく一般の人からは「日本画ッテ水墨画デスカ?」とか「浮世絵デスカ?」などと聞かれることがある。ある意味でもっともな質問なのだけれども実はその質問に戸惑ってしまう。それは私が藝大で教育を受けた「日本画」はその両方ともから切り離されているからだ。藝大では水墨や浮世絵の技法的を教わることは決して無い。古典の模写というのはやらされた。今回の展示に中島の手による「随身庭騎絵巻」の模写があったが、それは自分も課題で描かされたことがあり、その伝統は当時から受け継がれていることに少し驚いた。ちなみに中島は藝大には行っていないのだが、当時も画塾では教えられていたのだろう。

「日本画」というのは厚くて丈夫な和紙の上に油彩画のように厚塗りをする。パネル張りで額に入れられるので壁に掛けて飾ることができる。真偽のほどは定かでは無いが、「日本画」は油絵のキャンバスのようには丸められないので、戦争画あるいは戦争協力画のような大画面の制作に向かなかったと言われている。ともかく当時の日本画の重鎮は当然のように国家との結びつきも強く、戦時にはそのことを、つまり「西洋画」との勢力の逆転を本気で悔しがっていたとも言われているのだ。少なくとも戦前は古典をテーマにしたナショナリズム満載の「日本画」が多く描かれていたし、戦中は中島のように内地に慰問に出かける画家も少なくなかったようだ。

戦後70年である今年、多くの美術館で戦争を意識した展示が行われたことは積極的に評価すべきだと思う。ここ横浜美術館でも常設展示には素晴らしいものがあった。だが、例えば「日本画」という「システム」についてはこの展覧会を含めこの70年間にほとんど総括されていないとあらためて気づく。戦前・戦後を体験した世代の日本画家は、戦争を語ることなく元の「近代日本画」に「現代日本画」を接ぎ木し、あるいは単に鞍替えをしてしまった。そしてその世代もほとんど亡くなっている。今にして思えば当時の「耐え難い気持ち悪さ、あるいは気味悪さ」というのはこの辺りにあったのだとわかるのだが、そして最近になってそれをあらためて肌身に感じるのは決して気のせいだけではないと思う。

 

中島清之 NAKAJIMA Kiyoshi

1899(明治32)年、現在の京都市山科区に生まれる。16歳で横浜に転居し、銀行勤務をしながら松本楓湖(まつもとふうこ)の安雅堂画塾に通う。25歳で院展に初入選。以後たびたび日本美術院賞を受賞し、同人となり、院展の中核として活躍。戦時中に小布施村(現・長野県上高井郡小布施町)に疎開した3年間以外は、横浜を拠点とし、横浜の美術界の発展と歩みを共にした。最晩年には、三溪園(横浜市中区)の臨春閣の襖絵を手がけ、古典とモダニズムを統合させた清之芸術の集大成を示した。第五室までを完成させた1981(昭和56)年、病を得て、三男の中島千波に襖絵の制作を託す。静養生活ののち、1989(平成元)年に没した。(展覧会HPより)

 

写真は横浜にて。カラスがとまっているのがわかるだろうか(クリックして拡大できます)。

 


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